じゃあ,読もう

今年は「国民読書年」らしい。以前毎日新聞のコラムでも揶揄されていたが,「じゃあ、読もう」というキャッチフレーズはいくらなんでも…と思う。図書カードの広告とかを見習ったらどうか。
読書年だからというわけでは全然ないが,最近は一念発起して読書量を増やす努力をしている(今更か,と言わないように)。具体的には複数冊を同時進行することが多くなった。最近読んだものの中から。

カミュ『よそもの』きみの友だち

カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)

カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)

カミュ『異邦人』の読後感がじわじわと来たので図書館で借りた。たしかにタイトルは『よそもの』と訳す方が適切だが,収録された野崎氏の抄訳よりは,やはり窪田訳のほうが適度な重みというか気だるさがあって読みやすいと思った。
自分は主人公ムルソーの言動にほとんど違和感を感じず,共感さえ持ってこの人物の造形を見守ったのだが,そうした見方は必ずしも一般的ではない模様。

なぜ彼は,母親の死を悲しまないのか?それが大方の読者にとってはやはり理解しにくい,彼を「よそもの」たらしめ続ける要因でしょう。

そうなのか。たしかにテクスト分析の立場からすればそこに異常さを読み取るべきなんでしょう。しかし冒頭から主人公はあまりに当然のごとく無感情・本能に正直な男として現出して,それが周囲とも軋轢を生むことなく受け入れられている様子*1なので,異質さを感じなかったわけです。

「多分,ぼくは母さんのことが好きだったと思いますけれど,でもそれは別に意味はありません。健康な人間ならばだれだって,多かれ少なかれ,愛する人の死を願ったことがあるものです」
このせりふにはみなさんも,思わずきょっとしませんでしたか?

ぎょっとするどころか首肯して止まなかったんですけど。窪田訳の方が「期待したことがある」となっているのでしっくりきますが,とにかく相手の死を想像する(≒期待する)のって愛する人,深く関心のある人だけじゃないですか。

小さき者へ・生まれ出づる悩み

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

『生まれ出づる悩み』の舞台が北海道・岩内なので,3年前の北海道旅行で岩内に寄った際の,どんよりとした港の情景が思い出された。こんなところで岩内に再会するとは。

美学への招待

美学への招待 (中公新書)

美学への招待 (中公新書)

一点。

もう一つ例を挙げましょう。こちらは,歴然として似ていると,わたくしが思っている事例です。それは,日本武道館におけるロックのコンサートの聴衆と,甲子園球場を埋めつくした阪神タイガースの応援団です。前者は藝術,後者はスポーツ観戦です。しかし,この藝術は,展覧会を観にゆくことよりも,詩集をひもとくことよりも,ワーグナーを聴くことよりも,スポーツ観戦に似ています。この二つが最もよく似ている点は,大声を張り上げ拍手をし,熱狂して我を忘れ,周囲の人びとと連帯感を生み出し,そうして最後にカタルシスを経験することです。

体験したことはないですが,ヴァーグナー経験,特にヴァグネリアンの「バイロイト詣で」は,まさに最後の一文にそのまま当てはまるもの――展覧会よりも,詩集よりも,甲子園の阪神ファンに似ているものなのでは。著者の主張としては何も間違っていないにせよ,ここでヴァーグナーを引き合いに出したのはちょっと奇妙に感じる。無難にブラームスぐらいにしておけばよかったかと。おそらく著者は今日的なCDや演奏会での聴取を考えているので,些末な揚げ足取りにすぎませんけどね。

*1:第2部に入ってムルソーの立場が急変することで,彼の性質が突如として軋轢を生むものと認識されてしまう,ということにこの小説の面白さがあるわけですね。