アリア

読売日本交響楽団
みなとみらいホリデー名曲コンサート・シリーズ


指揮:下野竜也
クラリネット:四戸世紀


東日本巨大地震犠牲者に捧げる〕 バッハ(ストコフスキー編)/アリア
バッハ(エルガー編)/幻想曲とフーガ ハ短調 BWV.537
ブラームス(ベリオ編)/クラリネットソナタ第1番 ヘ短調
〔アンコール〕 モーツァルト(野本洋介編)/アダージョ K.580
グルックヴァーグナー編)/歌劇《アウリスのイフィゲニア》序曲
ヴェーバーベルリオーズ編)/舞踏への勧誘
ドビュッシー(ビュッセル編)/小組曲
バッハ(シェーンベルク編)/前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV.552 《聖アン》

自分でも全く予期しないことだったんだけど,冒頭,暗めのステージへ静かに団員とシモノ氏が入場し,バッハのアリアを演奏し始めようとする瞬間,ぽろぽろ涙がこぼれてしまった。花粉症で涙腺が緩んでるのはあるとはいえ,公共の場でこんなに涙が流れたのは初めてかもしれない。演奏後の黙祷では涙と鼻水でぐしゅぐしゅになって困った(笑)。
自分は被災地の状況そのものには過度に心揺さぶられていないつもりだが,それでもどことなく落ち着かないこの一週間にあって,(生の)音楽を欲していたんだなあと納得した。また地震と相前後して漠然と沸き上がっている「自分は居所をどこに求めたいのか」という疑問に,やっぱり自分は音楽のある場所にいたいのだという,今更ながらも真っ当な解答を見出だして,安堵したのかもしれない。
犠牲者を思う時,会場の人,とりわけ楽団員は,こういう時の音楽の途方もない無力さを痛感し,共有していたのだと思う。しかし,それでも人はこれだけ音楽のある場所に集まってくる。逆に言うと,音楽という繋がりさえ途切れれば,人はたやすく離散してしまうなあと最近思う。人が集うということは,それだけで偉大な力だと感じた。
以下,普通の感想。後半がバカ長いのは賢いプログラムとは言えないが,シモノ氏の(いささか欲張りな)意図もよくわかるので,周りのお客さんが飽きないか心配しながら聴いていた。まず二つのバッハとブラームスありきのコンセプトで,バッハにコントラ2本やハープ2台使うからついでに有名曲枠の舞踏を,と。そして,舞踏やるならここでぐらいしかやる機会のないグルックを,となったのだろう*1。そして小組曲は有名曲枠…と考えるとたしかにこの曲順しかないが,でもやっぱりグルックか小組曲のどちらかは要らない子だったと思うの。
舞踏のフェイント終止に素で拍手してしまったのが不覚(しばらく気づかなかった)。アーノンクールの2回目のニューイヤーを思い出す。さすがにオケの集中がもたなかったのか,シェーンベルクはやや綱渡り的演奏に思われた。元々が,ブラームスのピアノ四重奏曲と同系統の無茶ぶりな編曲ではあるけど。
そういえば地震以来,無意識にバッハを多く選んで聴いていたことに気がついた。
追記:アリアはチェロが旋律を多く担当する編曲で,後で確認したらおそらくストコフスキー編である。さすが,トランスクリプションで徹底している。久々にストコフスキー編バッハを集めてみたくなった。